優生学を学び感じたことだ

遺伝現象を応用して人類の改良を図る科学であった優生学

 

優生学者は文明が自然淘汰を減らしたと言う。

確かに、僕は今の時代を謳歌していて、戦国時代や江戸時代くらい昔だったら多分もう死んでるだろうなぁってよく思う。

優生学的に見れば僕は劣等者確定だ。

劣等感の強い僕も自分が可愛いから自己肯定と自己否定を繰り返しなんとか生きてきたわけだが、今は幸せだし、生きてきて良かったと心から思う。

 

優生学者はさぞ優秀な人なのだろうが、誰を優秀とするのか?

学校の成績が良ければいいのか?

顔やルックスが整っていればいいのか?

性格が良い人ばかりならよりよい社会になるかもしれないが、誰がその良い、悪いを判断するのか?

その辺は極めて曖昧だが、きっちりと定義された社会は相当、息苦しい。

人間の価値を相対的に考えると、必ず誰かは淘汰されることになるだろう。

“自分が生きていていい”と言う自己肯定感。他人の価値を下げることによって持つことは寂しい。

 

僕は優生学ってのは扱い方が難しいと思っている。

というとは、優秀な遺伝子を残そうとするのは動物の本能で、人間以外の動物は趣味なんかもなく、食べるため(生きるため)と自分の遺伝子を残すために生きているように感じる。

小学生くらいにテレビ見た動物界の子孫を残すための熾烈なオス同士の争いなんかは印象的だった。

もしかしたら、そんな激しさが本能的に人にも備わっているのかもしれない。

 

また、権力者が他人に余計なお節介を焼き、国家権力を振りかざした時に優生政策となったのではないかとも思う。

ただ、他人の生きる権利を奪う際「あなたはなぜ生きてていいのか?」って質問には答えられないだろう。

 

優生学では健康であったり、肌の色だったり、人種だったりが人間の価値を計る尺度になっていたのだが、今の資本主義社会では生産性が高く、お金をたくさん稼げる人が優秀な人なのだろう。

 

つまるところ、その人の持っている人間観が出るんだろうなぁと洞察している。