優生学の概念

各国の優生学の歴史を見てきたが、どのような作用で優生政策が進められたかを概念として市野川 容孝 教授が鋭い洞察をしているので引用したい。

 

 優生思想というものは、それ自体、完結したものとして存在するわけではない。とりわけ、それが一つの社会的実践として、すなわち優生政策として具体的な形をもつようになるとき、優生思想は、いくつかの概念や装置と連動し、これらに取り囲まれながら具体化する。本章では、近代社会において優生思想、優生政策が具体化していく構造=コンテクストを支えるモメントとして、「自然」、「近代的個人(主体)」、「福祉国家」という三つに注目した(図参照)。

 これら三つの要素は一見、互いに対立するかのように見える。例えば、ダーウィンにとって「自然」という概念は、まさに「福祉国家」という装置を、淘汰の阻害要因として告発するための道具であった。また、「近代的個人(主体)」の概念は、「福祉国家」という装置に潜む全体主義的傾向に、本来ならば拮抗するはずのものである。しかし、これらは一種の化学反応によって優生学に結びつけられるとき、互いに他を補うものとして機能し始める。

 「自然」の概念から導き出される淘汰という実践は、「福祉国家」が要請するコスト計算を背景としながら、その政策上の正当性を確保していく。つまり、限られた財源をより有効に配分していくためにこそ、淘汰(優生学不妊手術という実践)は不可欠のものとして要請されていったのである。

 また、「近代的個人(主体)」の概念は、自由の前提条件として自立能力を要請する論理に結びつきながら、淘汰されるべき人間の像をより明確に描き出していく。

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『障害者学への招待』石川 准、中瀬 修 監修、明石書店、1999年

 

優生政策の本質を突いている。

 

福祉国家」は「自然」という概念から導き出される淘汰とは逆のパワーが働く。本来なら淘汰されていたかもしれない人を国家が世話しているわけだ。

その「福祉国家」の持っている全体主義的な作用は「近代的個人(主体)」と逆のパワーがある。

本来、反対のパワーを持っているもの同士が化学反応により優生政策として推し進められる。

 

優生政策(断種)の対象者を自己決定できない人というのは「近代的個人(主体)」から導き出されたというわけだ。

 

非常に鋭く深い洞察だ。